コロナ禍で変わった人、変わらなかった人
非常時にこそ、その人の本質があらわれる。
そう思うようになったのは、9年前の東日本大震災のときからだ。
あのとき、私は被災地のど真ん中にいたが、幸いにして、大切な人や家を失うことはなかった。
そして、転勤で間もなくその地から引っ越すことが既に決まっていた。
私は「被災者」ではなかったが、では無傷だったかというとそうではない。
被災地を去る者に対するよそよそしさや、地元であってもニュースでしか被害を知らない人からの心ない言葉で、じわじわと傷つけられていた。
数年来、親しくしていた同性の友人と離れたのもこの頃だった。メールへの返信が突然来なくなったのだ。
あの頃の私は、きっとおかしくなっていたのだろう。同時に、今考えてみると、彼女もやはりおかしくなっていたのだろう。
それ以来、人づきあいには慎重になっている。
ところが最近、ずっと通っている店(県内)の対応が、なんだか冷たくなっていることに気づいた。
私なにかやらかしたっけ…?何度も考えたが普通に店を利用しているだけで、特に店に対して失礼無礼な振る舞いをした記憶は全くない。
腑に落ちないまま用が済むとすぐに店を出た。直後に胃がキリキリと痛みだし、30分後にはスーパーのトイレに駆け込む羽目になった。
落ち着いてから、私の住んでいる町で最近クラスターが発生しているからかな、と考えた。私はその場所とは全く無関係で、少なくともそこからコロナに罹っている可能性はない。
冷静に考えればそうなのだが、人によっては、クラスターが発生した町の市民は、もれなく全員がコロナ陽性患者と思い込んでしまうのかもしれない。
普段はずぼらな私だが、自分でできるコロナ対策は、できる限りしているつもりだ。
マスク着用はもちろんのこと、石鹸と消毒ジェルは常時持参(アトピーなので合成洗剤はNG、備え付けのものは使えないから)、食べ終わったら即マスク、一日中せっせと手洗い…などなど。どれもこれも、他人にうつさないためだ。
いずれにせよ本当のところは分からない。でももうその店に行くことはないな、と思った。
こと人間関係について、「断捨離」という言葉を使うのは好きではない。私には「余計な」友人知人など一人もいないから。ただ、こういう時に、お互いの関係が試されるのは事実だ。悲しいことではあるけれど。
それでも、変わらない人は変わらないものだ。
何年間かのおつきあいで消えていく人がいる一方で、20年近くおつきあいしている人もいる。私はだいたい最初の出会いは覚えてないし、この人と友達になろうと意識したこともなくて、忙しいと連絡も途絶えがちになるのだが、気がつくと長いつきあいになっていたりする。
それは、お互いの置かれた状況が変わっても、常に変わりない態度で私に接してくれるからだ。
今は県外の友人知人だと、なんとなく「今会うのは遠慮しとくか」みたいな雰囲気になることもある。「そうだね」とすんなり納得できるのも、そういう理由なのだろう。
定宿にしている温泉の女将さんが言ったことが忘れられない。
「(緊急事態宣言のとき)このお客さんはここに住んでるからOK、別のお客さんはあそこに住んでるから来ないで、とは言いたくなかったの。うちにとってはみんな大事な常連さん。だから休業することにしたのよ」
纏足とハイヒール
今日は休みを取り、一日キッチンの大掃除をした。掃除の合間につらつらネットを見ていたら、「纏足」についての記事が目に留まった。幼少時から纏足をさせられた女性が現在も存命しているという内容だ。
纏足という風習を、高校の現代文の授業で知った人は少なくないだろう。魯迅の小説『故郷』で、確か主人公の近所に住んでいた「豆腐屋のヤンおばさん」が、纏足なのに早足で歩いたという描写があったように記憶している。脚注には簡単な説明だけだったので、当時はそれほど強烈な印象は持たなかった。
それからずいぶん経って、中国宮廷衣装の展覧会を観に行く機会があり、その中に清朝の西太后が纏った衣装もあった。写真で見る西太后は豪華な衣装にやや不釣り合いな、今の日本にもいそうな普通のおばちゃんぽい風貌で、しかし彼女が履いたというぽっくり状の靴を見て、これまた彼女の貫禄とは程遠い華奢な足だったことが想像され(おそらく20センチあるかないか)、これが纏足というものか…と思ったのだ。
ところが記事の中では、西太后が纏足を禁止したとある。確かに清王朝のルーツは騎馬民族で、男女問わず馬に乗るのが当たり前であり、そのため男女ともチュニックにパンツのスタイルである(もっともあのぽっくり靴で馬には乗れないだろう)。となると、纏足を施した足はさらに小さかったということになる。
纏足は女性から歩行能力を奪う拘束具のようなものであった。ただそれは中国だけの野蛮な風習ではなく、ヨーロッパのコルセットや日本の十二単など、形は違えど洋の東西を問わず存在した。コルセットは、肋骨が歪むことによって内臓が圧迫されるなど、健康に重大な影響を及ぼした。何もそこまでしなくとも、そもそも「運動」という概念が無かったのだから、貴族の女性は100メートルも歩いたら、息切れしてその場にへたり込んでしまうだろうに。
現代では、纏足もコルセットも過去の遺物となった。しかし日本の皇室の結婚式はいまだに十二単だし、大人の女ならハイヒールを履くべしという文化も根強く残っている。
私自身、ヨーロッパの某国の男性から「ハイヒールを履いてほしい」と言われたことがある。「カノジョでもないのに人の服装を指図すんなボケ」「そんなにハイヒールが好きならお前が履けよ」「足フェチの変態野郎」など、いくらでも言うべき言葉はあったが、少し冷静になり「私はアヒル足(幅広・甲低)なのでハイヒールを履いたら歩けないし、そもそも持っていない」と反論したが、まるで聞く耳持たずであった。彼は私が歩けるかどうかなどどうでもよかったのだ。
日本でも昨年、パンプス強要に対する抗議運動「#KuToo」が起こった。その元ネタとなった「#MeToo」運動で加害男性を擁護する発言をした著名人がいたが、そういう人々と、ハイヒールを強要する人々は重なるように思う。
いつだったか、スーパーモデルのナオミ・キャンベルがランウェイで転倒したことで有名なブランドの靴を、面白がって試着してみた。「わあこれは一歩も歩けない!でもこれを履いて歩ける人もいるんだね」と店員さんと盛り上がった。自分で身につけるものを自分で選ぶ自由があるからこそ、ファッションは楽しいのだ。
KENZOの死に思う
唯一無二のデザイナーが、また一人この世からいなくなった。
彼の自伝『夢の回想録』を読んだのは、確か昨年のこと。本の表紙の近影が、後期高齢者とは思えないほど若々しく、それだけにあっけなく逝ってしまったことが信じられない。
20年前、彼が自身のブランドから去るという記事を見て、慌てて地元のショップに駆け込んだことを思い出す。
不景気で就職できず、バイトで繋ぐ身としては、彼の服は大好きだけれど手の届かない物だった。その年は1年契約のフルタイム、ボーナス付きだったため、6年間の冷や飯食いの中では、比較的マシな年であった。
店に着いてみると、主だった商品はほぼ捌けていた。残っていたものの中から選んだのは、グレーと茶の柄のカットソーと、黒地に秋の七草を配した、着物風のスカートだった。
問題はサイズが13号だったこと。一続きの柄なので、裾を切ることができない。店員さんが一生懸命考えてくれて、裾ではなくウエストを切って丈を詰め、さらに柄をうまく合わせつつ脇も詰めて、9号サイズに作り直すことができた。
カットソーはよれよれになってしまったが、スカートは今も現役で活躍している。他にもポーチやらハンカチやら、小物はずいぶん買ったのだが、全部使い倒して今はない。
見ただけで誰のデザインか分かる服が、最近は本当に少なくなった。
アノニマスな服も、それはそれで必要なのだけど、それだけでは、あまりにもつまらない。
第2次世界大戦後、オートクチュールの顧客は減少し、ファッションの主流はプレタポルテに取って代わった。ファッションが巨大なビジネスになるにつれ、ショーも大掛かりになっていった。ショーそのものが見ものとして話題になれば、より幅広く顧客を獲得できるからだ。
老舗メゾンのように代々の経営者一族がいるわけではないので、デザイナー自身がデザインはもちろん、経営も広報も仕切った(その結果、クリエイティブ・ディレクターという呼称も生まれた)。しかし優れたデザイナーが、必ずしも優れた経営者であるとは限らず、経営難に陥ったブランドはコングロマリットに次々と買収されていった。いち従業員となったデザイナーは、経営陣の望むとおりの「みんなに売れる」服を作るか、逆らって首を切られるかの二者択一を迫られる。結果が出せなければわずか1~2シーズンで解雇された。デザイナーを取っ替え引っ替え、そのたびブランドイメージはぐらついた。創業デザイナーが去ったブランドで、その人を超えるデザイナーが現れる可能性は、ゼロとは言わないがかなり低い。
このあたりが、どのブランドも似たような服を作るようになった要因の一つだと思う。
ファッションを万人向けのビジネスとして考えれば、好き嫌いの分かれる個性の強いデザインは確かにNGだ。でも、それはファッションと呼べるのだろうか?
彼の死をもって「ファッションは死んだ」というコメントもあったが、もうずっと前から、ファッションは瀕死の状態にある。彼が自分のブランドを引退してから20年が経つ。その間にファストファッションが台頭し、それなりにデザインも品質も向上して、脅威となっている。そして新型コロナが最後のとどめを刺そうとしている。
2021春夏のコレクションは、例年のランウェイショーではなく、無観客でのショーや、映像で発表したブランドが多かった。派手な演出もなく、必然的に服そのものをじっくり鑑賞することになった。
そのような状況下でも、しっかり持ち味を発揮しているデザイナーもいて、そういう服には欲しいと思わせる力がある(買えるかどうかは別として)。余計なものを全て取り払って、最後に行き着くところは、やはりそのデザイナーにしか生み出せないデザインなのだ。
KENZOのアイコンは、花とジャポニズムであり、それは絶対にブレることはなかった。
【一期一具】スマート電球 PHILIPS Hue
「一期一具」(いちごいちぐ)は、私がこれまで一生一度の幸運な出会いをした道具たちについて綴るシリーズです。
ここ数年、仕事から帰ると、リビングで寝落ちしてしまうことが増えた。私は寝るときは真っ暗派なので、灯りが点いていると熟睡できない。熟睡できないのは脳味噌によろしくない。そこで手持ちのお気に入りの照明器具を、自動で消灯してくれる器具はないかねえと探していた。
2週間ほど前、ときどきお世話になるインテリアショップのblogを眺めていたら、スマート電球なるものが紹介されていた。色や明るさが自由に変えられ、タイマー機能もある。便利だし、面白そうだ。
すでにいろんなメーカーから販売されているが、その中でも比較的アプリの動作が安定してそうなメーカーの製品に決めた。いくら製品自体が優秀でも、アプリがゴミだと使い物にならないからだ。Hue Bluetoothというアプリにはデモ機能がついていて、あらかじめiPhoneに落として、購入前にアプリの使い心地をお試しできる。
リビングルームにフルカラー、寝室にホワイトバリエーションの電球を取りつけた。ソケットに電球をはめてアプリを起動させ、ペアリングすれば完了。超簡単。
フルカラーは白色の色味や明るさのほか、季節や地名などのイメージであらかじめ設定された色に変えられる。自分でいじってオリジナルカラーを作り出すこともできる。ホワイトバリエーションは白の色味のみ変えられる。
中継機の役割を持つ「ブリッジ」を組ませればフル機能で使えるが、ブリッジはWi-Fiのモデムに有線で繋ぐ必要がある。私は近々光をやめてモバイルWi-Fiにする予定があるため、Bluetooth接続にした。
ブリッジを使わないと、いろいろ機能が制限される。例えば、
・照明器具ごとに設定を割り当てる(Bluetoothは全ての照明が同じ設定になってしまう。寝室だけ点灯させたいときは、いったん全ての照明を点灯し、あとから個別に消すというひと手間が入る)
・映像や音楽と連動させる
・外出先からコントロールする
・純正のリモコンの使用
などはBluetoothのみではできない。
あと、これはバグなのか仕様なのかよく分からないが、アプリの「ルーチン」タブで設定した就寝時刻がその都度offになってしまう、iPhoneからは操作できるのにiPadからはなぜかできないとか(同期されない)、このあたりは改善の余地あり。
照明器具は、どちらも照明作家、谷俊幸さんのもの。
リビングルームはKazaguruma。
寝室はSen。
リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展@宮城県美術館
平日ど真ん中の休みは、美術館に行くには最適だ。
日程が合わず、東京で見逃してしまった「ヨーロッパの宝石箱 リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展」が間もなく会期が終わるので観に行った。
今回のコレクションのルーツであるリヒテンシュタイン公国は、ヨーロッパにいくつかあるミニ国家の一つだが、どんな国なのかイメージは全くなかった。
126点の展示品のうち、半数が北方ルネサンスの絵画、残りが磁器。
ルーカス・クラナッハが好きなので、それがメインのつもりで行ったのだが、思いがけなく磁器が強烈だった。
輸入した日本の有田や中国の景徳鎮に、金ピカの装飾金具を取り付け、元の用途とは全く違うものにリメイクしたものだった。大胆にも、あとから穴を開けたものもある。割れたりしないのだろうか。金具の部分はもちろん当時のヨーロッパのデザインなのだが、これが案外違和感がない。オリジナルが有田や景徳鎮でもともと派手なデザインだったからかもしれない。東洋の陶磁器でも金属との組み合わせは見られるが、もっと抑えめの色だった気がする。
好き好きはあるだろうけど、これはこれで面白いと思った。
食器を観たせいなのか、展示室を出たあと、ケーキを食べたくなった。
いつもは中高年女性のグループ客で満杯のカフェも、お昼時間を過ぎたからなのか、新型コロナのせいなのか今日は静かだったので、赤いレザーのワシリーチェアに座ってお茶をした。
今、この美術館は突如降って湧いた移転問題で揺れている。
白い柱が並んだエントランスを眺めながら、あらためて思った。
ここでいい。ここがいい。
熊本・大分で温泉ざんまいの旅①(計画編)
6月、今年の夏は海外は無理という最終決断を下した。何事もなければ、3度目のフィンランドと、初めてのスウェーデンの予定だった。スウェーデンに上陸すれば、北欧5ヶ国コンプリート達成である。ストックホルム郊外の世界遺産「森の墓地」で大女優グレタ・ガルボのお墓参りをし、クルーズ船でフィンランドに入り、まだ行ったことのないフィンランド中部から北に向かおうという計画だった。
代わりにどこに行こうか?
真っ先に候補に挙がったのは未踏の地北海道。
それから四国一周。祖谷温泉と道後温泉に浸かり、四万十川でじゃぶじゃぶする。
奈良南部最深部と和歌山の山奥でひっそりと自炊する。
そして九州。
しかし6月の北海道はコロナでてんやわんやだった。なんだか行ったら悪い気がした。もっともススキノで呑もうなどという気は毛頭なく、ただモエレ沼公園だけ行ければよくて、あとは随所で山に登りつつ、北海道の縁を車で回ろうと思っていた。
近いのに遠い北海道。縁が薄いのだろうか。
次に四国が候補から落ちた。1週間以上滞在するからには、そのうちの何日かは温泉に入りたい。しかし、お盆の掻き入れどき、しかもコロナでどこも内情が苦しい中、おひとり様がうまいとこ一泊でも温泉旅館に泊まれるかというと、そう甘くはなさそうだった。
奈良南部は、目的の一棟貸しの宿が、小さい棟からすでに埋まっており、一人には大きすぎる棟しか残っていなかった。みんな仕事早いね。
ならば再び九州へ。
九州は過去に2度訪れている。最初は福岡市内に二泊三日、福岡の町で買い物し、太宰府天満宮でかの有名な梅を見た。2度目は大分の温泉に三泊四日、長湯→湯布院→鉄輪と温泉を梯子した。湯布院は自分には全く刺さらなかったが、長湯と鉄輪は、ここなら一生住めると思うくらい気に入ってしまった。
残念ながら、前回長湯温泉で泊まった宿は、連泊は確保できないとの返答だった。どうやら私が心配するまでもなく繁盛しているようで、逆に安心した。鉄輪の方はOKとの返答。
そして、地震以来、必ずいつかと思っていた熊本。熊本で温泉といえばまず黒川温泉。長湯からも近い。「黒川温泉一旅館」を掲げるだけあって、公式サイトから日付と人数を打ち込めば、おひとりさまでも泊まれる宿をパシッと出してくれた。
全日程の宿を押さえた。飛行機はガラガラで問題なくチケットは入手。空港からのレンタカーもある。
よし行ける!